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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教

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菜の花

菜の花は、アブラナ科アブラナ属の花の総称。主としてアブラナ・セイヨウアブラナを指す。アブラナは、菜の花(ナノハナ)と呼ばれたり、青菜(アオナ)、菜種(ナタネ)と呼ばれたりする。花菜とも呼ばれる春を告げる野菜の一つでもある。

菜の花(アブラナ)
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諸法無我も哲学的

諸法無我に関しても仏教により哲学的に示された理である。全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無く、全ては我ならざるものであるという事を示す。

諸行無常は純粋な哲学

諸行無常は純粋な哲学であり、証明の必要のない理。因と縁によって生ずる全ての現象は固定的ではないという、誰にでも理解可能な断りであり、哲学的直感である。

愛別離苦(四苦八苦の一つ)

仏教上の苦しみの分類四苦八苦の一つである愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみである。いくら愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみを示し諸行無常への怒りを示す。
愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。

愛別離苦の対象



愛別離苦は人との別れ、人との死別が想起されやすいが、人を始めとした生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているもの全てが対象となるため、対象に好意があるのならいかなるものでも愛別離苦の対象になる。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ



涅槃寂静を理解することはできない

涅槃寂静を理解することはできない。
よって涅槃寂静は妄想の対象となりやすい。涅槃にない者が説く妄想によって宗教的暴論が加速してしまいやすい。涅槃とは煩悩の炎を吹き消すというような意味がある。
涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。

涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。
涅槃寂静

仏教の最終目標


涅槃寂静は仏教の最終目標とされるが、それを明確に示すことはできない。悟りの境地としての解脱・ニルヴァーナと表現されるが、その境地に立たないとそれが何かがわからない。

仏教用語として涅槃寂静


仏教用語として涅槃寂静は、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界「涅槃」は、静やかな安らぎの境地つまり「寂静」であるという形で表現されるが、「死後は涅槃に入る」という表現は「宗教」の発想であり妄想である。涅槃寂静は明確に示しえないため、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地としか表現できないという形になるだろう。静やかな安らぎの境地「寂静」は心静かに落ち着いたというような意味がある。

一切皆苦を抜いて三法印とする意図

仏教の三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静であり一切皆苦を抜いている。苦しみついて説かれた一切行苦・一切皆苦をわざわざ飛ばして三法印とする意図とはなんだろうか?
生きることは苦であるということは、主義ではなく理として示されているはずだが、なぜ触れないのか?
そこには苦しみという概念を持ち出すことで宗教的な都合の悪さが生じるからではないかという部分がある。苦しみであると言ってしまえば人気が出ないというような感じだろうか。


一切皆苦

一切皆苦(いっさいかいく)は「すべてのものは苦しみである」という意味を持つが、一切皆苦は正しくは一切行苦である。
一切行苦とは、全ての形成されたものは苦しみであるという意味です。この「苦」には通常の苦しみも含まれていますが、「思い通りにならない」とか「不完全」とか「不満」とか「虚しさ」といったニュアンスが含まれています。


一切行苦(一切皆苦)


一切行苦(一切皆苦)
諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静で四法印とされ、仏教の根幹をなす部分とされる。一切皆苦はこれは「人生は苦しみ」という意味よりも、「この世は自分が思うようにいかない」という意味の方が近い。

諸法無我(しょほうむが)と諸法非我(しょほうひが)

諸法無我(しょほうむが)・諸法非我(しょほうひが)共に、全ては縁起によって起こっており、固定的な「我」というものは無く、我は「我ならざるもの」という意味を持つ。



中村元によるダンマパダの日本語訳には、「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である、と示され諸法非我の方が用いられている。

諸法無我(しょほうむが)


諸法無我(しょほうむが)・諸法非我(しょほうひが)は、デカルトのコギト・エルゴ・スム「我思う故に我あり」の否定であり、「我あり」ではなく、我も我ならざるものであるということを示す。しかし「我がない」ならばデカルトもコギトのような帰結にもならなかったであろう。そうしたことから、無我とするのは適訳ではない。
そこで無我と表現されたことの意味を考えると、バラモン・ヴェーダ文化の中で考えられていた、「アートマン・真我・魂の実在」の否定の要素がある。諸法非我の方が適訳だが、諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。諸行無常と異なり諸法無我は「分かりにくい理」であるが、これも三宝印四法印の一つとされている。

諸法無我

真理とは「真なる」「理(ことわり)」

真理とは「真なる」「理(ことわり)」である。定義上、再現可能性があり、普遍性があるものが真理である。
真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できない 真理とは何か?
自分たちが盲信している聖書などの聖典に書いてあるから「真理だ」という人がいるが、それは理屈が通るだろうか?
誰にでも納得できるようなものが真理であり、信仰の有無で変化するようなものは真理とは言わない。


自由意志論

自由意志論。自由意志の問題とは意志そのもの、「どのように思うか」が自由であるかについて直接的な問いかけをするものであり、意志の成立過程を対象とする 因果的・単調的決定論とは、未来の事象は自然法則を伴う過去および現在の事象によって必然化されているという主張。哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論が見えてくる。自由意志において理論的認識の妥当性は因果律が支配する現象界に限定されるから、自由の存在は理論的には証明不可能。自由意志=他から束縛されず自らの責任において決定する意志というのは、社会学的自由意志であり、自由意志と道徳的責任に関する議論。


自由意志を哲学と社会学的帰責から

不殺生戒(アヒンサー)

不殺生戒(アヒンサー)は仏教特有のものではなく、ヒンドゥー教、ジャイナ教、古代バラモン教にもみられる概念であるがアヒンサーという言葉時代は不殺生だけでなく不傷害・非暴力を意味する。不殺生(アヒンサー)は、アヒンサー・パラモ・ダルマと呼ばれる。

不殺生の定義と不殺生戒