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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教

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紫陽花の季節

紫陽花の季節となった。アジサイ科アジサイ属の落葉低木である紫陽花(アジサイ)。
土のph値によって赤から青の花の色となる。
中心の細かな両性花と装飾花と呼ばれる花弁状の大きな萼がある。


紫陽花(あじさい)
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紙一重の詰めの甘さ

紙一重の詰めが甘さがあると結果が台無しになることもある。
予測した結果よりも随分と低い結果になってしまう事がある。

紙一重のところで詰めが甘く、結果的に平均的なものになってしまうということも起こる。おそら無意識的にある程度うまくいくと、うまくいきすぎないように調整が入り、結果を良くないものにしてしまう。

紙一重の皮算用

耳学問の固定観念

耳学問によっても固定観念が形成される。フレーズをあまり吟味しないまま解釈して固定観念化されると、問題が生じるほどの極端に走ることがある。
情報は都合の悪そうな注意部分が隠されていることがある。
そうして隠された情報により偏りが生じた状態で解釈を始めると誤謬に行き着く。
無尽蔵の耳学問

錯覚としてのゼロと不足感

錯覚としてのゼロと不足感。不足感はゼロの概念、ゼロの錯覚より生起する。
本来、自分が認識しているものだけが「ある」であり、ゼロは想像上のゼロでしかない。
記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚が無いという印象である。
本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。

ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。仮に短期的な記憶すら無い場合、ゼロの錯覚は起こりえない。
ゼロの錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、「無い」という前提による思考が起こる。
そして不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚

民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方

民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方。

民俗学とは、民俗文化を内側から明らかにしようとする学問であるが民俗学勃興時の意図としては、ヨーロッパ諸国において中央集権的なものに対する対抗として勃興した。では,自地域の民族の調査研究を民俗学と位置づけ、現代生活のなかに伝承される文化がいかに表現されいかなる形で存在しどのように推移してきたかを同国人的・同時代的な感覚を捉えそれが起こった理由を追及する。
現代の直接的な強制ではないが、物事のあり方、選択を制限する画一的な基準に対する対抗として、民俗学的な逃れ方が有効的である。
画一的なものに対する民俗学的脱出

古典雨月物語 菊花の約(きっかのちぎり)

上田秋成が安永五年(1776年)に出した雨月物語。「靑々たる春の柳、家園(みその)に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶなかれ」で始まり「咨軽薄の人と交りは結ぶべらかずとなん」で終わる。清貧を好む儒学者「左門」と病に倒れる武士「赤穴宗右衛門 」が友人となり、義兄弟の契を結むところから話が始まる。

雨月物語の菊花の約(きっかのちぎり)

極楽鳥花(ごくらくちょうか)ストレチア・レギネ

極楽鳥花(ごくらくちょうか)ことストレチア・レギネは、バショウ科(ゴクラクチョウカ科)ストレリチア属の半耐寒性多年草。英名バード・オブ・パラダイス(bird of paradise)。「花が極楽鳥に似ているから」という理由で極楽鳥花(ごくらくちょうか)と呼ばれる。

ストレチア・レギネ(極楽鳥花)




言葉の乱れと愚俗の言葉

言葉の乱れと愚俗の言葉。言葉の乱れというものが問題視されることがあるが、意図的に相手には通じないように話すということをもって、所属する集団を保護するという事も起こりうるため、社会的機能として別の面で機能を持っている面がある。新しい言葉がどんどん生まれるということは必然的であり、別の側面で意味をなす。
しかしながら、そうした意図的な使用ではなく、単に共感が乏しい故に「相手は前提知識がなく理解することができない」ということがわからぬまま意味が通じにくい話し方をするという場合がある。
これらは愚俗のことばにて

特殊な環境であることに気付かないまま依存すると破綻する

特殊な環境であることに気付かないまま現状に依存すると、そうした環境が変化した途端に破綻する。今ある環境を謳歌することは良いが、「縁なきものを縁あるかのように繋ぎ止めてくれるもの」、つまり特殊な環境が成り立たないものを成り立たせていてくれているうちに何かに気づき、環境への依存から脱却しなければいずれ破綻となる。
楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや



家の前で遊ぶ子供の限度を知らないうるささ

家の前で遊ぶ子供の限度を知らないうるささはまさに「抑制がない」という印象を受ける。
抑制がなく、節度がなく、社会性がない。
家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た
家の前で近所の子供が遊んでいる中、限度を超えた大声が続いたため、限度を知りなさいと注意すると子供の親が怒鳴り込みに来たというケース。
やはり親のあり方次第という印象。
教育の失敗以前に、親の思考回路に問題がある。