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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教

純粋理性批判

『純粋理性批判』は、カントの代表作であり、西洋哲学の中でも最も難解な本のひとつと言われています。この本でカントが挑んだのは、人間の理性が世界をどこまで理解できるのか、逆にどこから先は理解できないのか、という問いです。言い換えると「人間の知識の可能性と限界」を徹底的に検証した本なんですね。
 
まず難しいのは、テーマそのものが抽象的すぎる点です。普通の学問なら「対象」がある程度はっきりしています。物理学なら物質の運動やエネルギー、心理学なら人の心の動き、といった具合です。しかし『純粋理性批判』での対象は「人間の理性そのもの」。つまり、考える道具である理性を使って、理性そのものを分析しようとする、いわば「鏡で鏡を覗くような作業」なんです。これだけでも読者はかなり混乱します。
 
カントは冒頭で「形而上学」をどう立て直すかを課題にします。形而上学というのは「世界はどう成り立っているか」「神は存在するか」「魂は不滅か」といった、経験では証明できない問いを扱う学問です。近代に入ると科学の発展によって、経験的に証明できる学問は大きく進歩しましたが、形而上学は堂々巡りの議論が続き、信頼を失いつつありました。カントはそこで「理性は本当に形而上学的な真理に到達できるのか」を問い直したんです。
 
そのために彼が行ったのが「認識の条件」の分析です。私たちが世界を知るとき、どうやって知識が成立しているのかを掘り下げていきます。ここで出てくる有名な区別が「現象」と「物自体」です。カントによれば、私たちが認識できるのは「現象」、つまり人間の感覚や認識能力を通して表れた姿だけであり、「物自体」、つまり人間の認識の外側にある純粋な実在そのものは決して知ることができないとされます。この発想は直感的に納得できる部分もありますが、「じゃあ私たちが見ている世界はどこまでが本物なのか」という疑問を生み出し、理解が難しくなるポイントです。
 
さらに複雑なのが「アプリオリ」と「アポステリオリ」の区別です。アプリオリは経験に先立って成り立つ知識、アポステリオリは経験から得られる知識。カントは数学や自然科学の法則を例に、「人間の認識にはアプリオリな要素がある」と論じます。たとえば私たちは世界を空間と時間の中で把握しますが、それは外の世界がそうなっているからというより、人間の認識の枠組みそのものがそうだから、という説明です。つまり「空間と時間は人間の認識の形式にすぎない」という大胆な発想を打ち出したわけです。これが「コペルニクス的転回」と呼ばれる哲学史上の大転換なのですが、この説明が非常に抽象的で、慣れていないと頭が混乱します。
 
また、『純粋理性批判』の難しさは、単なる理論の抽象性だけではなく、カント独特の文章スタイルにもあります。彼は細かい概念の定義を積み重ね、論理を厳密に追い詰めていくため、ちょっと読み飛ばすと意味がつながらなくなります。

しかも「悟性」「理性」「判断力」など、日常では似たように使う言葉を厳密に区別して議論するので、読み手は常に緊張を強いられます。まさに「哲学の中の哲学書」と呼ばれる所以です。
 
最終的にカントが示したのは、「理性は経験の枠組みを与える力を持っているが、経験を超えた対象(神や魂、宇宙の始まりなど)を理性だけで証明することはできない」という結論でした。つまり理性は万能ではなく、その限界をわきまえるべきだというわけです。

この発想は形而上学に大きなブレーキをかけると同時に、経験科学の確固たる基盤を支える役割も果たしました。
 
『純粋理性批判』の難しさは、「理性そのものを理性で分析する」という抽象的作業に加えて、「現象と物自体」「アプリオリな認識」「理性の限界」といった概念が何重にも絡み合うところにあります。読み進めると、自分が何を理解しているのかさえ曖昧になるほどですが、その先に「人間は世界を完全には知れない」という深い洞察が待っている。だからこそ哲学者たちは今もこの本を読み続け、挑み続けているのだと思います。
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実践理性批判

『実践理性批判』はカントの三大批判書のひとつで、彼の思想の中でも「人間の行為」や「道徳」を正面から論じた本です。名前だけ聞くと「理性を批判する」というニュアンスで誤解されがちですが、実際には「人間の理性が実際に行為するとき、どんな限界や可能性を持っているのか」を探ろうとした内容なんですね。カントは『純粋理性批判』で「理論的に世界を完全に理解することはできない」と示しましたが、その上で「じゃあ人間はどう生きるのか、どう行動するのか」という次の問題に挑んだのが『実践理性批判』です。
 
難しいと感じる一つ目の理由は、道徳を「経験や感情」ではなく「理性」に基づいて説明しようとした点にあります。普通、私たちは「なぜ人を助けるのか」と問われれば「かわいそうだから」「社会的に必要だから」といった理由を挙げますよね。でもカントはそういう感情や外的要因ではなく、「純粋に理性だけから導かれる行為の原則」が道徳の基準だと主張しました。この発想がまず直感的に理解しづらい。人間は感情の生き物なのに、カントはあえて「理性だけで人間の自由や善を説明できる」と考えたんです。
 
二つ目の難しさは「自由」と「道徳法則」の関係にあります。カントによれば、人間が自由であるためには、自分で自分に法則を与える、つまり「自律」が必要だとされます。この自律という考え方は、現代的には魅力的に響くけれど、理論としてはすごくややこしい。というのも、私たちが普段「自由」と聞いてイメージするのは「好き勝手に振る舞うこと」ですが、カントにとっての自由はむしろ逆で、「自分の欲望や衝動に流されず、理性の命じる法則に従うこと」なんです。つまり「理性に従うこと=本当の自由」という逆説的な定義が出てくるわけです。この辺りが読み手を混乱させるポイントです。
 
三つ目の難しさは「定言命法」という概念です。カントは「人が道徳的に正しい行為をするとはどういうことか」を説明するために、「条件付きではない命令」、すなわち定言命法を打ち出しました。これは「もし〜したいなら〜せよ」という条件つき命令(仮言命法)とは違い、「常に無条件で従わなければならない原則」を意味します。例えば「他人を単なる手段として扱うな」という命題は、状況や利益に左右されない普遍的な命令だとされます。ただ、この「普遍的な法則に従え」という主張は、頭では理解できても、具体的な生活場面に当てはめるとかなり難しい。例えば嘘をついて人を救える場面でも「嘘は常に禁止」となるわけで、その厳格さが現実感覚とズレて見えるのです。
 
さらに難しいのは、この本が単なる道徳論ではなく、形而上学的な問いも絡んでいるところです。カントは「自由」という概念を、人間が理性を通して把握できる実践的な前提として扱いました。つまり「自由が本当にあるかどうか」は証明できないけれど、道徳的な行為を語るためには「自由があると考えなければならない」という立場を取ったんです。これはいわゆる「理性の要請」という発想で、頭で読んでいると「結局自由はあるの?ないの?」と迷子になるポイントです。
 
全体として『実践理性批判』の難しさは、「理性を基盤にして道徳を説明する」という挑戦にあります。人間の感情や経験に頼らず、理性だけを基準に置くことで、普遍的で揺るがない道徳の根拠を与えようとしたのですが、その結果、文章は抽象的で論理は複雑になり、読む側は哲学的な集中力を強く要求されます。しかも結論は日常感覚からすると逆説的なものが多く、「理解したつもりでも本当に腑に落ちているのか」と不安にさせられる。だからこそ哲学史の中でも特にハードルが高い本とされ続けているのだと思います。

他責思考により見えなくなるリソース不足という原因

他責思考により見えなくなるリソース不足という原因。
 
何かしらの問題が起こる時はリソースが不足しています。会社経営であれ、育児や介護といったものであれ、何かがうまくいかないと他責思考になる人達がいます。
 
そして「自分は変わらなくていい」という自分を固定化しようとする観念があると、リソース不足からその空間が破綻します。極端に言えば、会社であれば廃業、夫婦であれば離婚等です。そこまでいかなくても、経営難や家族間の関係性の事実的破綻というようなことが起こります。
 
たいていは「初めの見積もりが甘かっただけ」ということが原因なのですが、他責思考に陥っていては解決してくことはできません。大切なのは高い視点と意図を持つことです。
 
「最初の見積もり」が甘いというのは致し方ない面があります。どれだけ事前に情報を集めたとしてもそれは「その当時のその環境の他人の経験」です。拾えるものはありますが、そのまま適用できるものではありません。実際の経験のフィードバックや集まってくる情報等々、成長したからこそ見えてくるものもあります。

リソース不足と他責思考
リソース不足と他責思考について。

諸行無常と諸法無我、一切行苦

諸行無常と諸法無我、一切行苦は同じ理を中心に様々な角度から説明した仏教上の概念である。
「一切行苦(すべての形成されたものは苦しみである)」というところから、仏教ではこの原因を考察して心を安穏に導くことを説きます。そこで出てくるのは、「諸行無常(すべての形成されたものは常に変化する )」と「諸法無我(すべては関連性・繋がりの中で変化しており、執着の対象となる「この私」はない)」ということが説かれています。

諸法無我も哲学的

諸法無我に関しても仏教により哲学的に示された理である。全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無く、全ては我ならざるものであるという事を示す。

諸行無常は純粋な哲学

諸行無常は純粋な哲学であり、証明の必要のない理。因と縁によって生ずる全ての現象は固定的ではないという、誰にでも理解可能な断りであり、哲学的直感である。

愛別離苦(四苦八苦の一つ)

仏教上の苦しみの分類四苦八苦の一つである愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみである。いくら愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみを示し諸行無常への怒りを示す。
愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。

愛別離苦の対象



愛別離苦は人との別れ、人との死別が想起されやすいが、人を始めとした生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているもの全てが対象となるため、対象に好意があるのならいかなるものでも愛別離苦の対象になる。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

錯覚としてのゼロと不足感

錯覚としてのゼロと不足感。不足感はゼロの概念、ゼロの錯覚より生起する。
本来、自分が認識しているものだけが「ある」であり、ゼロは想像上のゼロでしかない。
記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚が無いという印象である。
本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。



ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。仮に短期的な記憶すら無い場合、ゼロの錯覚は起こりえない。
ゼロの錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、「無い」という前提による思考が起こる。
そして不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚

哲学的に捉える仏教の四苦八苦

仏教の四苦八苦を哲学的に捉える。四字熟語としての四苦八苦の一般的な用法は、上手くいかずに悶えるというような印象であるが、本来はあらゆる苦しみを示したものを総した苦しみの概念となる。
四苦八苦 あらゆる苦しみ
四苦八苦は、仏教用語であり、生苦、老苦、病苦、死苦の生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで構成されている。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく「思い通りにならない」という意味であり、「苦しみ」は、「思い通りにならない」という不満・不完全を意味するパーリ語の「ドゥッカ)」。



諸行無常 形成作用としての「行」

諸行無常 形成作用としての「行」.
因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。
諸行無常
諸行無常は、この世の中の何でも彼でも、常に変化していて少しの間も止まってはいないという意味です。 人生のはかなさを表す言葉として用いられることも多く、一般的には世の移り変わりの激しさや人の死を悼むときに使われています。 形成作用としての「行」因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。

一切皆苦

一切皆苦(いっさいかいく)は「すべてのものは苦しみである」という意味を持つが、一切皆苦は正しくは一切行苦である。
一切行苦とは、全ての形成されたものは苦しみであるという意味です。この「苦」には通常の苦しみも含まれていますが、「思い通りにならない」とか「不完全」とか「不満」とか「虚しさ」といったニュアンスが含まれています。


一切行苦(一切皆苦)


一切行苦(一切皆苦)
諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静で四法印とされ、仏教の根幹をなす部分とされる。一切皆苦はこれは「人生は苦しみ」という意味よりも、「この世は自分が思うようにいかない」という意味の方が近い。

涅槃寂静を理解することはできない

涅槃寂静を理解することはできない。
よって涅槃寂静は妄想の対象となりやすい。涅槃にない者が説く妄想によって宗教的暴論が加速してしまいやすい。涅槃とは煩悩の炎を吹き消すというような意味がある。
涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。

涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。
涅槃寂静

仏教の最終目標


涅槃寂静は仏教の最終目標とされるが、それを明確に示すことはできない。悟りの境地としての解脱・ニルヴァーナと表現されるが、その境地に立たないとそれが何かがわからない。

仏教用語として涅槃寂静


仏教用語として涅槃寂静は、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界「涅槃」は、静やかな安らぎの境地つまり「寂静」であるという形で表現されるが、「死後は涅槃に入る」という表現は「宗教」の発想であり妄想である。涅槃寂静は明確に示しえないため、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地としか表現できないという形になるだろう。静やかな安らぎの境地「寂静」は心静かに落ち着いたというような意味がある。

思考や感情はただの反応

思考や感情はただの反応。
自分がいない客観的な世界というものは、自分の頭でイメージしたもので、思考の領域です。思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。
思考や感情と私