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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教

当然ながら徹底的に休むと調子が良くなる

当然ながら徹底的に休むと調子が良くなる。 重さがなくなり、軽くなる。 「別に大丈夫だ」という感想自体が、弱まっている時に慣れてしまって大丈夫であると感じているだけかもしれない。 調子が悪い時はなんとか踏ん張っているような感じがせいぜい。 「一応体も動くし頭も働く」というような感じであってもあえて強制的に休む。 休養と加速
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他責思考により見えなくなるリソース不足という原因

他責思考により見えなくなるリソース不足という原因。
 
何かしらの問題が起こる時はリソースが不足しています。会社経営であれ、育児や介護といったものであれ、何かがうまくいかないと他責思考になる人達がいます。
 
そして「自分は変わらなくていい」という自分を固定化しようとする観念があると、リソース不足からその空間が破綻します。極端に言えば、会社であれば廃業、夫婦であれば離婚等です。そこまでいかなくても、経営難や家族間の関係性の事実的破綻というようなことが起こります。
 
たいていは「初めの見積もりが甘かっただけ」ということが原因なのですが、他責思考に陥っていては解決してくことはできません。大切なのは高い視点と意図を持つことです。
 
「最初の見積もり」が甘いというのは致し方ない面があります。どれだけ事前に情報を集めたとしてもそれは「その当時のその環境の他人の経験」です。拾えるものはありますが、そのまま適用できるものではありません。実際の経験のフィードバックや集まってくる情報等々、成長したからこそ見えてくるものもあります。

リソース不足と他責思考
リソース不足と他責思考について。

諸行無常と諸法無我、一切行苦

諸行無常と諸法無我、一切行苦は同じ理を中心に様々な角度から説明した仏教上の概念である。
「一切行苦(すべての形成されたものは苦しみである)」というところから、仏教ではこの原因を考察して心を安穏に導くことを説きます。そこで出てくるのは、「諸行無常(すべての形成されたものは常に変化する )」と「諸法無我(すべては関連性・繋がりの中で変化しており、執着の対象となる「この私」はない)」ということが説かれています。

諸法無我も哲学的

諸法無我に関しても仏教により哲学的に示された理である。全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無く、全ては我ならざるものであるという事を示す。

木立ちアロエ

木立ちアロエ・Aloe arborescensは、ススキノキ科ツルボラン亜科アロエ属の多肉植物。「木立ち」の名の通り茎が伸びて立ち上がって木質化。
キダチアロエ

12月~2月に赤橙色の花を咲かせる。

諸行無常は純粋な哲学

諸行無常は純粋な哲学であり、証明の必要のない理。因と縁によって生ずる全ての現象は固定的ではないという、誰にでも理解可能な断りであり、哲学的直感である。

コモンセージ

コモンセージ・Common Sageは、シソ科サルビア属の耐寒性多年草。
セージ
サルビアの仲間であり、薬用サルビアと呼ばれることもある。効能は解熱、食欲増進、消化作用、防腐殺菌など。灰緑色で表面には細かい網目状のしわがある。

愛別離苦(四苦八苦の一つ)

仏教上の苦しみの分類四苦八苦の一つである愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみである。いくら愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみを示し諸行無常への怒りを示す。
愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。

愛別離苦の対象



愛別離苦は人との別れ、人との死別が想起されやすいが、人を始めとした生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているもの全てが対象となるため、対象に好意があるのならいかなるものでも愛別離苦の対象になる。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ



錯覚としてのゼロと不足感

錯覚としてのゼロと不足感。不足感はゼロの概念、ゼロの錯覚より生起する。
本来、自分が認識しているものだけが「ある」であり、ゼロは想像上のゼロでしかない。
記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚が無いという印象である。
本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。



ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。仮に短期的な記憶すら無い場合、ゼロの錯覚は起こりえない。
ゼロの錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、「無い」という前提による思考が起こる。
そして不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚

哲学的に捉える仏教の四苦八苦

仏教の四苦八苦を哲学的に捉える。四字熟語としての四苦八苦の一般的な用法は、上手くいかずに悶えるというような印象であるが、本来はあらゆる苦しみを示したものを総した苦しみの概念となる。
四苦八苦 あらゆる苦しみ
四苦八苦は、仏教用語であり、生苦、老苦、病苦、死苦の生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで構成されている。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく「思い通りにならない」という意味であり、「苦しみ」は、「思い通りにならない」という不満・不完全を意味するパーリ語の「ドゥッカ)」。



諸行無常 形成作用としての「行」

諸行無常 形成作用としての「行」.
因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。
諸行無常
諸行無常は、この世の中の何でも彼でも、常に変化していて少しの間も止まってはいないという意味です。 人生のはかなさを表す言葉として用いられることも多く、一般的には世の移り変わりの激しさや人の死を悼むときに使われています。 形成作用としての「行」因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。