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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教


錯覚としてのゼロと不足感

錯覚としてのゼロと不足感。不足感はゼロの概念、ゼロの錯覚より生起する。
本来、自分が認識しているものだけが「ある」であり、ゼロは想像上のゼロでしかない。
記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚が無いという印象である。
本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。



ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。仮に短期的な記憶すら無い場合、ゼロの錯覚は起こりえない。
ゼロの錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、「無い」という前提による思考が起こる。
そして不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚

哲学的に捉える仏教の四苦八苦

仏教の四苦八苦を哲学的に捉える。四字熟語としての四苦八苦の一般的な用法は、上手くいかずに悶えるというような印象であるが、本来はあらゆる苦しみを示したものを総した苦しみの概念となる。
四苦八苦 あらゆる苦しみ
四苦八苦は、仏教用語であり、生苦、老苦、病苦、死苦の生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで構成されている。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく「思い通りにならない」という意味であり、「苦しみ」は、「思い通りにならない」という不満・不完全を意味するパーリ語の「ドゥッカ)」。



諸行無常 形成作用としての「行」

諸行無常 形成作用としての「行」.
因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。
諸行無常
諸行無常は、この世の中の何でも彼でも、常に変化していて少しの間も止まってはいないという意味です。 人生のはかなさを表す言葉として用いられることも多く、一般的には世の移り変わりの激しさや人の死を悼むときに使われています。 形成作用としての「行」因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。

一切皆苦

一切皆苦(いっさいかいく)は「すべてのものは苦しみである」という意味を持つが、一切皆苦は正しくは一切行苦である。
一切行苦とは、全ての形成されたものは苦しみであるという意味です。この「苦」には通常の苦しみも含まれていますが、「思い通りにならない」とか「不完全」とか「不満」とか「虚しさ」といったニュアンスが含まれています。


一切行苦(一切皆苦)


一切行苦(一切皆苦)
諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静で四法印とされ、仏教の根幹をなす部分とされる。一切皆苦はこれは「人生は苦しみ」という意味よりも、「この世は自分が思うようにいかない」という意味の方が近い。


黄花アリッサム

黄花アリッサムは、アブラナ科アリッサム属の多年草で、黄色い十字形の小花をたくさん咲かせる。サクサティレ種のアウリニア・サクサティリス、モンタナム種のアリッサム・モンタナムがあるが、アウリニア・サクサティリスが黄花アリッサムや宿根アリッサムと呼ばれている。

アリッサム

涅槃寂静を理解することはできない

涅槃寂静を理解することはできない。
よって涅槃寂静は妄想の対象となりやすい。涅槃にない者が説く妄想によって宗教的暴論が加速してしまいやすい。涅槃とは煩悩の炎を吹き消すというような意味がある。
涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。

涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。
涅槃寂静

仏教の最終目標


涅槃寂静は仏教の最終目標とされるが、それを明確に示すことはできない。悟りの境地としての解脱・ニルヴァーナと表現されるが、その境地に立たないとそれが何かがわからない。

仏教用語として涅槃寂静


仏教用語として涅槃寂静は、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界「涅槃」は、静やかな安らぎの境地つまり「寂静」であるという形で表現されるが、「死後は涅槃に入る」という表現は「宗教」の発想であり妄想である。涅槃寂静は明確に示しえないため、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地としか表現できないという形になるだろう。静やかな安らぎの境地「寂静」は心静かに落ち着いたというような意味がある。

思考や感情はただの反応

思考や感情はただの反応。
自分がいない客観的な世界というものは、自分の頭でイメージしたもので、思考の領域です。思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。
思考や感情と私

蓋然性

社会は蓋然性の高さで成り立っている。ある事柄が起こる確かさが蓋然性(がいぜんせい)。
蓋然性(がいぜんせい)とは、「確からしさ」というような感じの意味を持ち、「おそらくまあそうだろうなぁ」というような確実性の度合いのこと蓋然性とあいまいさ
事物の生起やその知識の確からしさの度合いが蓋然性。確実性や可能性とは若干異なる概念である。蓋然性は高い、低いで表現する。蓋然性を数量化したものが確率。



蓋然性の高さの問題と曖昧性の問題。その線引、どの程度を許容するのかのあいまいさが、思考に混乱をもたらす。
絶対的な確実性をもったものを示し得ないため、法律の分野などでは、この蓋然性の概念が用いられる。ただどの程度なら良いのかという感覚、あいまいさが、時に混乱を招くことがある。主観的になりうる部分でもあり、線引が難しい。



民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方

民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方。

民俗学とは、民俗文化を内側から明らかにしようとする学問であるが民俗学勃興時の意図としては、ヨーロッパ諸国において中央集権的なものに対する対抗として勃興した。では,自地域の民族の調査研究を民俗学と位置づけ、現代生活のなかに伝承される文化がいかに表現されいかなる形で存在しどのように推移してきたかを同国人的・同時代的な感覚を捉えそれが起こった理由を追及する。
現代の直接的な強制ではないが、物事のあり方、選択を制限する画一的な基準に対する対抗として、民俗学的な逃れ方が有効的である。
画一的なものに対する民俗学的脱出

固定観念との向き合い方

固定観念との向き合い方。思い込みとはつまり観念であり、ある程度固定化されているものは固定観念と呼ばれます。固定観念が様々な「苦」を形成しています。

固定観念との向き合い方

しかし、本来はその場をダイレクトに感じればそれで良く、嬉しさに固定観念は必要ではありません。あってもいいですが、必須条件ではありません。

固定観念への態度