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都人の学問と研究

学問と研究 哲学・仏教


思考や感情はただの反応

思考や感情はただの反応。
自分がいない客観的な世界というものは、自分の頭でイメージしたもので、思考の領域です。思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。
思考や感情と私

接客中の仏頂面

ふくれっつらを意味する仏頂面。接客中の仏頂面は顧客を逃していくことになる。

しぶしぶ仏頂面の対応
コンビニ店員が店員同士では明るく元気に話し込むものの仏頂面。
レジに客が立っても気づかず、声をかけられてようやくレジの前に立ち、何か口頭で注文するようなものに対しても返事はしないという事例。

耳学問の固定観念

耳学問によっても固定観念が形成される。フレーズをあまり吟味しないまま解釈して固定観念化されると、問題が生じるほどの極端に走ることがある。
情報は都合の悪そうな注意部分が隠されていることがある。
そうして隠された情報により偏りが生じた状態で解釈を始めると誤謬に行き着く。
無尽蔵の耳学問

愛別離苦(四苦八苦の一つ)

仏教上の苦しみの分類四苦八苦の一つである愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみである。いくら愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみを示し諸行無常への怒りを示す。
愛別離苦は生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているものとの別れの苦しみ全てになるので、対象に好意があるのならいかなるものでも対象になります。

愛別離苦の対象



愛別離苦は人との別れ、人との死別が想起されやすいが、人を始めとした生き物との別れだけはなく、好きなもの、愛しているもの全てが対象となるため、対象に好意があるのならいかなるものでも愛別離苦の対象になる。

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ



民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方

民俗学勃興時の意図と現代の民俗学的な逃れ方。

民俗学とは、民俗文化を内側から明らかにしようとする学問であるが民俗学勃興時の意図としては、ヨーロッパ諸国において中央集権的なものに対する対抗として勃興した。では,自地域の民族の調査研究を民俗学と位置づけ、現代生活のなかに伝承される文化がいかに表現されいかなる形で存在しどのように推移してきたかを同国人的・同時代的な感覚を捉えそれが起こった理由を追及する。
現代の直接的な強制ではないが、物事のあり方、選択を制限する画一的な基準に対する対抗として、民俗学的な逃れ方が有効的である。
画一的なものに対する民俗学的脱出

涅槃寂静を理解することはできない

涅槃寂静を理解することはできない。
よって涅槃寂静は妄想の対象となりやすい。涅槃にない者が説く妄想によって宗教的暴論が加速してしまいやすい。涅槃とは煩悩の炎を吹き消すというような意味がある。
涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。

涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。
涅槃寂静

仏教の最終目標


涅槃寂静は仏教の最終目標とされるが、それを明確に示すことはできない。悟りの境地としての解脱・ニルヴァーナと表現されるが、その境地に立たないとそれが何かがわからない。

仏教用語として涅槃寂静


仏教用語として涅槃寂静は、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界「涅槃」は、静やかな安らぎの境地つまり「寂静」であるという形で表現されるが、「死後は涅槃に入る」という表現は「宗教」の発想であり妄想である。涅槃寂静は明確に示しえないため、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地としか表現できないという形になるだろう。静やかな安らぎの境地「寂静」は心静かに落ち着いたというような意味がある。

うさぎが死んだら

うさぎが寿命を迎え死んだらどうするか。
ウサギの死に際や死んだあと。 うさぎの死は、仕方のない事だと自覚しています。死を悲しみ、泣いても何も変わらない、もううさぎには何も伝わらないとわかっています。
うさぎの死
ウサギを含めた小動物は寝たきりになるとそれからが早い。 死が近い中、どれほど慈しむことができるかが重要である。

古典雨月物語 菊花の約(きっかのちぎり)

上田秋成が安永五年(1776年)に出した雨月物語。「靑々たる春の柳、家園(みその)に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶなかれ」で始まり「咨軽薄の人と交りは結ぶべらかずとなん」で終わる。清貧を好む儒学者「左門」と病に倒れる武士「赤穴宗右衛門 」が友人となり、義兄弟の契を結むところから話が始まる。

雨月物語の菊花の約(きっかのちぎり)

一切皆苦を抜いて三法印とする意図

仏教の三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静であり一切皆苦を抜いている。苦しみついて説かれた一切行苦・一切皆苦をわざわざ飛ばして三法印とする意図とはなんだろうか?
生きることは苦であるということは、主義ではなく理として示されているはずだが、なぜ触れないのか?
そこには苦しみという概念を持ち出すことで宗教的な都合の悪さが生じるからではないかという部分がある。苦しみであると言ってしまえば人気が出ないというような感じだろうか。

固定観念との向き合い方

固定観念との向き合い方。思い込みとはつまり観念であり、ある程度固定化されているものは固定観念と呼ばれます。固定観念が様々な「苦」を形成しています。

固定観念との向き合い方

しかし、本来はその場をダイレクトに感じればそれで良く、嬉しさに固定観念は必要ではありません。あってもいいですが、必須条件ではありません。

固定観念への態度

諸行無常 形成作用としての「行」

諸行無常 形成作用としての「行」.
因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。
諸行無常
諸行無常は、この世の中の何でも彼でも、常に変化していて少しの間も止まってはいないという意味です。 人生のはかなさを表す言葉として用いられることも多く、一般的には世の移り変わりの激しさや人の死を悼むときに使われています。 形成作用としての「行」因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。